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安曇野・ダウン症障害児・親の会

自分を優先するか、他人を優先するか、という人類最大のテーマ

料理を皿に盛りつけるとき、福人くんの分を、小皿に取り分けます。
そして、小皿を目の前に置いてみると・・・。
福人くんは、ニコニコして食べます。

ところが、料理の種類によっては大皿に一気に盛り付けることがある。
中華鍋かグリルの鍋か、小皿には置けないおかずを、一気に大皿に移すとき。
実際は食卓テーブルで、その大皿からさらに人数分の小皿へと取り分けるのですが・・・。

福人はそんな場面を見ると、指でさして、
「あ、あ、おーおー」
と、自分の方にそれをよこせ、と言います。
大皿ごと、それを自分へよこせ、と。

家族分なのですが、それを全部福人に与えると、みんなの分がなくなります。
兄貴はそれを言おうとして

「これはみんなのだからね。だから福人はこれだけー」

と、小皿にそこから分けようとする。
はい、これだけ、ね。


すると、福人は怒るのです。
「そうじゃない、そうじゃない、その大皿ごとだ。たくさん、たーっくさん、俺はほしいのだ」
というわけ。彼のよく響く大きな声で、おそらくそんな意味の、なにかを言う。

兄貴は福人はがめついなあ、と呆れて、まあ無視してみんなの分も小皿に分けてしまう。
大皿にはきらきら光るおかずが、つい先ほど、あんなに豪華に盛られていたのに、すっかりなくなった。
すると福人は大変に残念がって、
「ああ、ああ、無くなってしまったではないか」
というように、さみしそうな声を出すのです。

まあこりゃ、仕方ないね。
と・・・これまではしていた。

ところが、今日はちょっとあまりにもおかずの大皿が大きかったので、わたしはちょいと実験気分が出てきた。
有田焼の、わが家ではいちばん大きな皿であります。
かたくり粉でちょいととろみがついた、中華風のおかずでした。
バーンと食卓へ置いたところ、それまで畳の部屋にいて積み木で遊んでいた福人が、気配を察して、こちらへやってきた。
そして、さっそく上機嫌で椅子に座って、さあ、この僕にぜんぶよこせ、というわけです。

小皿も用意してあったので、これから取り分けようと思ったのですが、みんなが食卓に着いてから、それを福人の真ん前に置いてみた。
嫁様も私も、こんなに大きな皿が目の前にきて、福人はどうするだろうか、と思って見ていました。
すると、福人はものの3秒ほど、その大皿を目の前にして目をルビーのように光らせ、破顔したあとにあっさりと、
もういいよ、というようにうなずき、ここから小皿へ取り分けよう、という手真似をしてみせたのあります。

そして、自分や嫁様や兄や私の分が小皿へと移されて、それぞれの人間の前に置かれるのを見届けると、大皿を自分よりも遠い方にすっと押しやろうとしました。

これはなんだろうか。

この素晴らしいおかずがこんなにもふんだんに、たくさん、自分のものになった、と思った瞬間に、有頂天になって、心が満たされた。
すると心が満たされることによって、満足感が生まれ、心に余裕が生まれた。
余裕が生まれると、まわりをみることができた。
そしてみんなの分を取り分けてあげようという気になった。

自分→他人

この順番なのですね。
満足させるべきなのは・・・。
まあ、当たり前か。

人間というのは、

自分が心から満足すると→『ごく自然に・・・』→他人も満足させたくなる・・・。

こういう順番で生きているものらしい。

自分を優先するか、他人を優先するか、という人類最大のテーマ_c0244465_11585572.jpg




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にほんブログ村 # by azumino-oya | 2019-12-29 11:59 | 福人の日記

【嬉しい】ブログをまとめて本にしました

ありがたいことに、福人の育児が10年になります。(10歳)
支えてくださっているみなさんに感謝を込めて、これまでのブログを一冊にまとめました。
【嬉しい】ブログをまとめて本にしました_c0244465_20481663.jpg
























自分でも7年前にどんなことを書いていたのか忘れているので、ちょっと大げさに言うと、わくわくしながら読みました。
へえ、そんなことあったっけ、という感じ。
自分が、その当時、どんな観方をしていたか、感じ方をしていたか、思い出されて面白かったです。

安曇野市の地球宿(ちきゅうやど)に置かせてもらおうと考えています。
どうぞお立ち寄りの際に、読んでみてくださいね。
ちなみに下は、福人が3歳のときの姿です。(ちっさ!)
【嬉しい】ブログをまとめて本にしました_c0244465_00313931.jpeg




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にほんブログ村 # by azumino-oya | 2019-09-24 20:53 | 福人の日記

レジのおばさんとの交流

わたしは福人を、できるだけ、スーパーでのお買い物に連れていく。
自分一人で買い物するときは、とにかく心が急いて、
「はやく帰って〇〇しなきゃ」
と考えがちだ。
しかし、福人をつれていくと、買い物が純粋に楽しい。
だから、彼を連れて行きたくなるのだと思う。

福人は、スーパーに行く前からノリノリで、車の中でキャッキャしている。
そして、いつものように駐車場に車を停め、カートが並んでいるところへ行くと、カートを押す役をする。

まあ実際には安全確保のために、わたしがカートに乗せたカゴの端っこをもっている。そして行き先を微妙にコントロールしているから、福人はカートにつかまっているだけだ。でも、おそらく、福人にとってみたら、カートを自分で押して、自分が運転していると考えているのだと思う。

レジのところでなぜか、おばさんに、かごのなかのものを見せるが、
この儀式が不思議でならぬらしく、
おばちゃんが、一つひとつ、品物をカゴからカゴへと移すさまを、目を皿のようにして、じーっとみる。
そして、おばちゃんに、愛想笑いのように、ニーッと歯をむき出して笑い顔を見せ、
いいでしょう。これ、みんなぼくんちがもらうの。
というような感じである。

そして、そのつど、ピッ、ピッ、と音がするため、福人もいっしょに、
「ぴっ、ぴ!」
と、大声で言う。

福人にとって、もしかしたら、ピッ、という音は、
「おばちゃんの方向からしてくる音」
というような認識であって、おばちゃんが言ってるのだ、という理解をしている可能性もある。
おばちゃんが「ピッ!」と言っているのであれば、ぼくも言いたい、ということかもしれない。

しかし、あのレジの音。
あれは結構な音量である。
われわれは機械音など脳内処理でカットできるから、聞こえないふりができるが、福人の耳には純粋に馬鹿でかく聞こえているのだろう。

そこで、福人は、店内に鳴り響くレジのピッという大音量の音に合わせ、ぼくもそこに一枚加わって、ともにこの音を奏でよう、さぁみなさん、ともに歌おう!その意味での「ピッ!」にも思える。

福人の「ぴ!」をきいて、初めてのおばちゃんがどう反応するか、わたしはいつもそれが楽しみだ。
ほとんどのレジのおばちゃんは、苦笑いをする。

わたしも、その意味が分かる。だれだってこの場合は、苦笑い、であろう。だって、ヘンだもの。
おばちゃんが苦笑いをして、親の顔をみてくるから、わたしも鏡のように、苦笑いをしておばちゃんを見る。
真剣な顔をして「ぴっぴっぴ!」と叫ぶ子どもと、苦笑いをして見つめあう二人の大人。

ところが先日。驚いたことがありました。
なんだと思います?

福人がいつものように「ぴッ!」と言っていたら、おばちゃんも、同じように一つひとつの商品をスキャンするごとに、
「はい、ぴ!・・・ぴっ・・・これも、ぴ!」
と、口で、言ったのよ。
そして真面目な顔で、
「はい、おしまい。よくできました」
と言って、福人と会話をしたのだ。
さらに、
「はい、お会計、合計で3786円になります」
と、わたしに言った。かごを右手で下に片付けながら、ね。
福人とおばちゃんの、合唱や!
おばちゃん、やるナ。




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にほんブログ村 # by azumino-oya | 2019-09-07 12:04 | 福人の日記

「泣く」ということの成り立ちと意味

スーパーで買い物をしていると、エーンエーン、と泣く声が聞こえてきた。泣き声はしだいに近づいてきて、私の膝丈くらいまでの身長の子が歩いてきたのが見えた。思い切り泣いている。

目から、ぽろん、と音が聞こえるくらいの大粒の涙が落ちた。しゃくりあげたり、息をついたりして、ふたたび、『エーン』の泣き声をあげる。

わたしは十代の頃から「感情」に興味がある。なぜ、「泣く」という行為をするのか。
人間にとって、なぜ「泣く」が基本設定されているのだろう、とずっと考えてきた。
だから、こういうときは、その子の顔をまじまじと見つめてしまう。顔を見ながら、ずいぶんと考えてしまう。

〇買いたいものを買ってもらえなかったのか
〇お母さんとはぐれてしまったのか
〇おもらしをしてしまったのか
〇なにかを落としてしまったのか
〇なにか腑に落ちないこと、気に入らないことがあったのか
〇自分の意図をだれかに汲んでもらえなかったのか

原因はいろいろとあるだろう。しかし、理由なんてどうでもいい。確かなことは、たった一つ。人間にとって、「泣く」という行為が、基本的に設定されている、ということだ。

面白いのは、「泣く」ということが、実は快感、ということ。わたしは若い頃、このことの解釈に非常に時間をかけた。
良く分からなかったからである。悲しいことやつらいことがあったから人は泣くのだろう。
しかし、意外にも、「泣く」を終えた後、脳の一部に、快感が生まれているのである。
わたしはこのことが若い頃、どうしても理解できなかった。矛盾としか思えず、気持ちが落ち着かなかった。

きっかけは、映画監督(だれか忘れた)が、「人は泣きたいのです。気持ちがいいことだから」と書いていたのを読んだことだ。
読んで、なるほど、そうかもしれない、と思ったのが最初で、以来ずっと、わたしは
「泣くと快感が生まれるのはどうしてか」
ということが気になって気になって、自分でもずっと頭の中の自由研究として考え続けている。
10代の頃から考えているから、もうかれこれ、30年ほど考えてつづけている。

泣くときに、子どもの脳のなかでは、どんなカットウが生じているのだろう。
〇お菓子をかってもらえなかった・・・
〇転びたくなかったのに転んでしまった・・・
〇はぐれるつもりはなかったのにはぐれてしまった・・・

現実が自分の願っているとおりにならないと、カットウが生じる。
そして、そのカットウに苦しむ。
そのカットウの中で、
ほんとうはぼくはこうしたかった
ほんとうは私はこうしてほしかった
という、自分という小さな命の、ちっぽけな『ねがい』を
やさしく、やさしく、愛撫しているように思う。

そのときに、本当にそうだったね、本当にこうしたかったね、本当にこうしてほしかったんだよね、と
事実の前の、そのどうにもならない思いを汲んで、自然と受け入れられるようになるまで、自分自身に共鳴すること。
それが、「泣き声」になるんではないか、と思うようになった。

だとすると、その「泣く」という大事なプロセスや行為を、外部から監視し、
「泣くのをやめろ」
というのは、なんとも非人間的というか、傍若無人というか、ぶしつけというか。
あるいはデリカシーがないというか、粋じゃない、無粋なふるまい、ということになりはしないか。
また、
「ほら大丈夫だよ、アメちゃんをあげよう。ほら、泣きやんで~」
という、おせっかいも要らない。
心の中の大事な作業が終了したら、事実を受け入れて大切にしようとしているのだから、そのときになれば自分で勝手に泣き止もうと決めているのだから、そっとしてほしい、というのが子ども側の本音だろう。
あるいは、
「あーあ、泣いちゃった。しょうがない、ほっとこう」
というのも、なんとも味わいの薄い、つまらない行為だと思う。

こっちは必死で、心中のカットウと向き合っている作業中なのだ。
かわいいかわいい、自分自身の小さな声をひろって、大事に大事に拾って抱え、愛撫しているところなのだ。
それを、迷惑顔で
「ほっとこう」
というのも、同じ人間のすることか!と思うネ。
同じ人間、同志として見ていてほしいよ、こっちは必死なんだから。
あたたかく、見守ってよ、尊い作業をしているんだから。
リスペクトしてよ!という気持ちがあるね。
これからは、だだをこねて泣いている子や、ハンカチで涙腺を押さえて泣いている大人をみたら、尊い作業を行っている方だと心から尊敬し、リスペクトして、心の中でそっと手を合わせて拝む、というくらいになればいいと思う。

新幹線の中で赤ちゃんが泣きだしたら、みんなでその赤ちゃんの方を向いて拝む。父も母も、じっちゃんばっちゃん、通勤中のサラリーマンも、みんなで赤ちゃんの方へ深々とリスペクトの視線を向けながら拝む。

どうでしょうか。これが本当のことだと思うけどね。(泣いたら困る、なんて・・・もってのほか)




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にほんブログ村 # by azumino-oya | 2019-07-14 11:44 | 子育て全般

なぜ世界にこんなに美味い物があるのかという基本的な設定への疑問

福人はごはんが大好き。
食卓はいちばん好きな場所です。
マイおはしは、いちばん愛している道具でしょう。
そして、ごはんもお味噌汁もサラダも卵焼きも、なんでも大好き!

うっとりするほど好きなものもありますよ。
それが、「生クリーム」ですね。
この世にこんな素敵なものが、なぜあるのか、とじっと目をとじて考えます。

よく、親は環境を作るのが仕事だ、といわれます。
子育ての本には、ほとんどそういうことばかり書かれているようです。

身の回りから余計なものをなくし、できるだけ自然素材のもの、豊かなものが手に取れるように。
子どもにとっての危険なものをなくし、できるだけ身体をうごかしやすい服装で、たくさんの発見と出会いがあるように。
環境設定は、子ども自身には無理ですから、それを親が整備していくのが、いちばん大事なこと。
そう書いてあります。

ときおり、福人を見ていると、
『人生の設定』
という言葉が思い浮かびます。
そして、『世界の設定』ということも。

なぜ、この世は、こんなに満ちているのか、と思いますが、どこまで考えても、本当に不思議でなりません。
今、わたしはこれを、「あたり前田のクラッカー」をたべながら打ち込んでいるわけですが、このクラッカーが、なぜこのわたしの目の前に、こうやってある、のでしょうか。

そもそも考えてみると、小麦粉、という素敵なものが、なんで世の中にあるんでしょう。
焼いたら香ばしくなって、栄養にもなり、たしかにうまい。
わたし、「あたり前田のクラッカー」がこの世に存在するわけが、本当のところはよくわかりません。

福人には、「生クリーム」というものがこの世に存在していることの不思議さとありがたさ、幸運さをかみしめているような雰囲気があります。
とびきりの笑顔になり、まずすぐに食べないで、わたしたち家族に、その「生クリームだ!」ということの幸せを、何度も何度も伝えようとします。
なぜこういうものが世の中に存在するのか、と。
うっかりすると、わたしを喜ばせるために?というような気さえしてしまう。
そうではない、わたしを喜ばせるためではない・・・、だけど、わたしをとりまく世界には、「イチゴジャム」も「生クリーム」も「ヨーグルト」も「オレンジジュース」も「酢のもの」も「ごぼうサラダ」も「サツマイモスープ」も、たしかに、ある。

けっして、わたしを喜ばせるために、存在してるわけではないけれども、どうしてこういう設定になっているんだろう?

たしかに、この世にまだまだ問題は多くあります。また、ヘイトや憎しみも、ある。
国どうしはもちろん、隣近所や、同じ職場の中でさえも、いがみあっていることがある。

だけど、初期設定は、どうでしょう。
この世界の初期設定は・・・。
つねに変化し、新しくなり、世界全体が調和しあおうとしている。
そして、その小さな調和がつみかさなって、今、わたしはあたり前田のクラッカーを食べることができています。

みていると、目の前のたんぽぽにも、一匹の黒蜂がやってきて、花粉をよろこんで食べている。

「なんで世の中ってのは」
蜂は、口をもぐもぐさせながら語ります。
「こんなすてきなもので、うめつくされているんでしょう」
花粉を全身にあびながら、たんぽぽをゆすって
「あっしはむずかしいことはわかりませんが、この世が最高に素敵なところだってことは保証しますよ」

蜂の食事をじゃましないように、そっと離れました。

なぜ世界にこんなに美味い物があるのかという基本的な設定への疑問_c0244465_10203250.jpg





















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にほんブログ村 # by azumino-oya | 2019-05-03 10:00 | 福人の日記

ふくとくんは10歳。でも、わずか5歳くらいにしか、見えません。つまり発達の速度が健常児の2分の1。それが染色体に特別な事情をもつ、ダウン症児の育ちなのです。
by azumino-oya
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